大判例

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最高裁判所第一小法廷 平成7年(オ)2229号 判決 1996年2月22日

上告人

藤田浩成

右訴訟代理人弁護士

市川昭八郎

被上告人

株式会社丸誠商会

右代表者代表取締役

中村省一

右訴訟代理人弁護士

林武夫

堀口康純

押野毅

主文

原判決を破棄する。

本件を名古屋高等裁判所に差し戻す。

理由

上告代理人市川昭八郎の上告理由について

本件訴訟は、被上告人が、第一審判決別紙物件目録記載の各土地に設定された被上告人の抵当権と上告人の抵当権の順位を変更する登記の抹消登記手続を求めるものであり、その主要な争点は、上告人と被上告人が抵当権の順位を変更する旨の合意をしたとの上告人主張の抗弁事実が認められるかどうかの点にある。そして、この抗弁事実の認定については、乙第一号証(抵当権順位変更契約証書)の被上告人作成名義の部分にある被上告人代表者の「中村省一」の署名が本人の自署によるものであるかどうかが重要な意味を有する。上告人は、第一審においてこれについて筆跡鑑定の申出をしたが、第一審は、これを採用することなく、乙第一号証の被上告人作成名義の部分が真正に成立したものであると認定し、右抗弁事実を認めて被上告人の請求を棄却した。これに対し、原審は、筆跡の点について特段の証拠調べをすることなく、乙第一号証の被上告人作成名義の部分が真正に成立したものとは認められないとして抗弁を排斥し、第一審判決を取り消して被上告人の請求を認容した。

しかしながら、第一審で勝訴した上告人は、原審で改めて筆跡鑑定の申出をしなかったものの、原審第二回口頭弁論期日において陳述した準備書面によって、原審が乙第一号証の被上告人作成名義の部分の成立に疑問があるとする場合には、上告人が第一審において筆跡鑑定の申出をした事情を考慮して釈明権の行使に十分配慮されたい旨を求めていたのである。そして、乙第一号証の「中村省一」の署名の筆跡と第一審における被上告人代表者尋問の際に中村省一が宣誓書にした署名の筆跡とを対比すると、その筆跡が明らかに異なると断定することはできない。このような事情の下においては、原審は、すべからく、上告人に対し、改めて筆跡鑑定の申出をするかどうかについて釈明権を行使すべきであったといわなければならない。原審がこのような措置に出ることなく上告人の抗弁を排斥したのは、釈明権の行使を怠り、審理不尽の違法を犯したものというほかなく、この違法が判決に影響を及ぼすことは明らかである。

したがって、論旨は理由があり、原判決は破棄を免れない。そして、乙第一号証の被上告人作成名義の部分の成立について更に審理を尽くさせるため、本件を原審に差し戻すのが相当である。

よって、民訴法四〇七条一項に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官小野幹雄 裁判官高橋久子 裁判官遠藤光男 裁判官井嶋一友 裁判官藤井正雄)

上告代理人市川昭八郎の上告理由

一 原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違背すなわち、釈明権・釈明義務を規定する同法第一二七条一項、二項の違背および審理不尽がある。以下のとおりである。

二 本件において最も問題となるのは乙第一号証の「中村省一」が何人によって書かれたものか、ということである。この点、上告人は第一審において、右書証が真正に成立したことを証するため、右筆跡の鑑定を申し出た。

しかし、第一審は右鑑定を必要なしとして、鑑定は採用されなかった。そして第一審判決は、右乙第一号証の被上告人名下の印影が被上告人の印章によって顕出されたことは当事者間に争いがなく、反証のない限り、右印影は被上告人の意思に基づいて顕出されたものと推定すべきであるとし、結局右推定に対する反証となるに足りる証拠はない、とした。

三1 控訴審において、被上告人は、新たな証拠として証人浜田芳友を申請し、これが採用された。この証人は、しかし乙第一号証作成に関する証人ではない。乙第一号証については全く何も知らない証人である。

2 第一審で勝訴し、第二審での敗訴者の新たな証拠申請が事案についての決定的と考えられるような証拠でない場合、勝訴者は普通新たな証拠申出をしない。このことは公知の事実である。上告人は、証拠申請をしなかった。しかし念のため、準備書面(平成七年四月一八日付)において、もし、前記推定に関し疑問があるとされるなら、第一審で鑑定の申出をした事情を考慮され、釈明権―民事訴訟法第一二七条―の行使など十分配慮して頂きたい旨述べておいた。

3 原判決は何等釈明権を行使することなく、乙第一号証の被上告人作成部分の成立はこれを認めることはできない旨判示し、上告人敗訴の判決をした。

四1 ところで、民事訴訟法第一二七条は釈明権ないし釈明義務を規定するが、本条の意義については、当事者の申立て・陳述に不明瞭または矛盾、あるいは不正確または不十分な点があるなどの場合に、訴訟関係を明瞭にするため事実上および法律上の事項について質問しまたは証拠の提出を促すことにより事案の解明に協力する裁判所の権能ないし義務である、とされる(注釈民事訴訟法3一二七頁)。

右釈明については、「消極的釈明」と「積極的釈明」が区別され、前者は当事者が申立てや主張をしているが、それらが不明瞭な場合などに行われる補充的釈明であり、後者は当事者のした申立てや主張が事案にとって不当または不適当である場合や、当事者が適切な申立てや主張等をしない場合に、積極的に裁判所がそのことを示唆・指摘して行う釈明をいうとされる(前掲注釈一一六頁以下)。最近の判例は積極的釈明権不行使をも違法としているのである(最判昭四五・六・一一、同昭五一・六・一七講座民事訴訟法7二七七頁参照)。

そして、釈明には、右のとおり証拠の提出を促す釈明も当然に含まれており(前掲注釈一一六頁)、しかも最高裁は証拠申出の釈明について、かなり積極的な姿勢に変わった旨指摘されるのである(最判昭三九・六・二六、同昭五八・六・七、同昭六一・四・三など―前掲注釈一四七頁以下)。

2 更に、新たな証拠申出の釈明についても、少なくとも、控訴審が原審の事実評価と異なる事実評価を行うため、このことが当事者に示されさらに証拠申出を行う機会が与えられなければ不意打ちの判決となるような場合には例外的に新たな証拠申出を促すことが裁判所の義務となると解される(前掲注釈一五二頁)のである。

3 本件において、控訴審は原審の事実評価と異なる事実評価を行い、しかも、原審では筆跡鑑定の申出をしており、したがって、この点の釈明があれば上告人においてこの釈明に応ずることは明白に認められるのである(前掲注釈一六七頁)。

右の事情においてさえ、原審に釈明義務違反があることは明々白々である。しかも、上告人は前述のとおり釈明権の行使について十分なる配慮を求めているのである(前記準備書面の文面は、控訴審が原審の事実評価に疑問を抱いた場合を意味していること―はっきりこのように書くことはちょっとエゲツない―は司法試験に合格する程度の能力のある者なら誰でもわかることである。もしこのことがわからないというのなら、このような人は裁判官を退いた方が世のため、人のためである)。これを無視しての判決である。その不当さ、ひどさは言いようがない。

五1 原判決は不意打ちの判決であり、後から突然鉄砲を打った判決である。原審裁判官の三人もしくは二人(以下この意味で原裁判官という)は、本件のような判決をして後ろめたさを感じないのか、不思議でならない。我々普通の人間は、或る人から或る行動をする時に、ちょっと連絡してほしい、と言われている場合、連絡するものである。もし、連絡しないで行動した場合、後ろめたさを感ずるものである。これが倫理学的・哲学的意味における良心といわれるものを持った人間である(原裁判官は憲法第七六条三項に規定する良心を持つはずであるから、二つの「良心」は次元を異にするというべきであろうか)。

2 ある文字を誰が書いたか問題となる場合、一番はっきりする方法は筆跡鑑定である。これは親子関係における鑑定、同一人であるかどうかについての鑑定などと同様、現在において先ず一番確実と考えられる手段である。あれやこれやと適当な理屈を言ったとしても、もし筆跡鑑定において、ある人の筆跡と認められるとの鑑定がなされた場合、これに従う事実認定をするのが当然である。

原裁判官は鑑定の結果がどうあろうと、自分らの推測、理屈が正しいというのであろうか。こうなると全知全能、間違いをしない神、もしくは神に限りなく近い人間というほかない。そうであれば裁判という狭い場でなく、もっと広い場で活躍して頂くのが世のため、人のためである。

六 裁判官が神ならば別だが、そうでないとすれば重要な書証の成立について、一審は推定に対する反証がないと認め、控訴審はその反証があると考えた場合、筆跡鑑定をしたらどうだろうか、と考えるのが普通である。公正なそして出来る限り事案の解明をし、正しい判決をするのが裁判官に課せられた責務―義務であるなら、筆跡鑑定をしてみようと試みるべきでないか。いわんや本件では一審で鑑定の申出をしており、更に、一審と異なる事実評価に傾いた場合、釈明権の行使について特に配慮を求めているのであるから、一言、「鑑定をしてみましょうか」、あるいは「鑑定は如何ですか」ぐらい言うべきでないか。それぐらいの釈明をすべきでないか。

七 以上、原裁判は明らかに違法とされる釈明権の不行使であり、釈明義務違反である。それはまた、必要な審理を尽くしてから結審して判決を出すべしとする訴訟法規に違反するものであり(前掲講座7二七九頁注54)、審理不尽である。

そして、右法令の違背は判決に影響を及ぼすことは明らかである。

八 右のとおり、いずれにしろ、原判決は判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違背があり、破棄されるべきものである。

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